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明智光秀=天海説は、本当に荒唐無稽な伝承なのか?

鬼滅の戦史120

明智光秀=天海説の真偽は?

 

 この見方がかなり強引なことはいうまでもないが、「明智光秀=天海説」が全くの的外れかと問われれば、あながちあり得ない話ではない。この歌だけでなく、多くの状況証拠が挙げられていることまで、無視し切ってしまう訳にはいかないからだ。

 

 まず、天海ゆかりの日光、そこに広がる明智平の命名者が天海だったとの説が見逃せない。なぜわざわざ明智の名を冠したのか、不思議でならないのだ。

 

 また、光秀の坐像や位牌が納められた慈眼寺(じげんじ)と天海の諡号(しごう)である慈眼大師の名前の共通点や、天海の廟所が光秀の居城・坂本城と同じ大津市坂本にあったという点も気になるところ。一介の名もなき僧であった天海を家康が重用した謎も、二人同一説が正しければ、すんなり受け入れられるからである。

 

 光秀といえば、本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)を死に追いやった御仁。その後の山崎の戦いにおいて、秀吉軍に追い詰められて敗走。坂本城へ逃げ延びようとしたものの、小栗栖(おぐるす)に差し掛かったところで、落武者狩りにあって殺害されたというのが定説である。

 

 一方、光秀の後半生の姿といわれることもある天海なる御仁が、どのような人生を歩んできたのかにも目を向けておきたい。

 

 もともと生没年のはっきりしない人物であるが、生年は1536年あるいは1543年と見られることが多い。光秀の生年も定かではないが、こちらは1516年あるいは1528年説が有力。ほぼ同世代人と言えなくもない。

 

 ただし、驚くべきは天海の没年で、1643年というから、1536年生まれだとしたら、没年時は108歳ということになる。現代でも極めて稀というべき年齢である。江戸初期という時代を鑑みれば、驚くべき長寿というべきだろう。これ自体が怪しいと思えてきそうだ。

 

 この御仁が家康に仕えた経緯は定かではないが、3代家光(いえみつ)に至るまで3代の将軍に仕えたとか。家康が秀吉から関八州を与えられた後、江戸に城を築くように進言したのも、この天海であった。もちろん、四神相応(しじんそうおう)の地だったからである。

 

 また、豊臣秀頼(とよとみひでより)追い落としを目論んで、「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんぶらく)」と刻まれた方広寺の鐘銘に難癖をつけるよう示唆した(方広寺鐘銘事件)のも天海。さらには、上野の寛永寺や浅草の浅草寺をも創建。家康の神号を東照大権現としたのも、この御仁の尽力によるものであった。唯一宗源神道に基づく明神号を不吉として拒否。山王一実神道(さんのういちじつしんとう)による権現号をもって祀るよう進言したのである。

 

 もしも、光秀が天海だったとすれば、家康の天海に対する信頼度から鑑みて、元の光秀時代から信を置いていたことも十分考えられる。それを踏まえるならば、現在の戦国史でもまだ判明していない新しい事実がある可能性もあり得るのだ。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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